私の半世紀
私の半世紀は第1の人生と第2の人生からなっていると思ってます。第1の人生は、誕生から小学校の教員をやめるまでの42年間。
第2の人生は退職してからルーちゃんが生まれての人生、そして次は第3の人生がもう始まっています、、、。
第1の人生は、地の時代だったので、とても地道に生きていました。小学校では成績優秀で、学級委員を毎年必ずやり、運動会ではリレー選手、年の初めの書初め展では、代表として選ばれ、中学校でも成績は上位をキープ。ところが、いとこが通っていた進学校に憧れて入学した高校は、優秀人材が集まる高校で、成績はどん尻のほうでした。勉強は苦労したけれど、野球部のマネージャーをしたり、応援団のマネージャーをしたりとそれなりに楽しみました。大学は、夜間部のある大学で、夜中まで遊んだり、勉強したり、アルバイトしたり、海外旅行したりとそれはそれは楽しい大学生活でした(その時はあまりそんな風に感じてはいませんでしたが、かなり楽しんでいたなあと思います。)。就職してからは、苦労の連続。へき地の養護学校で寮母をし、子どもとの接し方に苦労の連続、職場の人間関係も苦労しました。また、上司からのモラハラにあって先のブログに書いたように追い詰められた時もありました。でも、基本的には、初めての就職で学んだ経験は多く、房総半島の自然の中で過ごした経験はとても貴重だったなあと思っています。
そして、小学校の教員として東京の下町に赴任、そこからクラス担任を14年間やりました。体の弱かった私がもう限界!!と思うくらい頑張ってました。振り返ると、本当にお疲れ様の人生でした。子どもってかわいいけれど、集団でいたら、かわいいだけじゃないこともままあります、そして、保護者の方もいろいろいらっしゃるので、その対応もあります。でも、何より大変なのは、子どもや保護者ではなく、学校内の体制とか、人間関係とか、授業中に子どもたちが書いたプリントやノート、テストの採点とパソコンを使った業務です。私はそれにかなりストレスを感じていました。パソコンが全然わからないのと、パソコンで頭痛がして、でもやることはパソコンがわからないから終わらない、質問したいけど、みんな忙しいし、何度も同じことを聞くから、なんでわからないの、って嫌がられるんじゃないかって思って余計に聞けなくなって仕事がどんどん終わらないから、プリント類を家に持って帰り、家では疲れてできなくて、また学校に持っていく、その繰り返しで疲弊してました。その頃は、朝8時から、夜9時くらいまで仕事して、土日の1日は仕事して、1日は全部寝てました。体がだるくてだるくてたまりませんでした。
学校の先生が大変なのは、授業だけじゃなくて、準備に採点・ノートを見て学級のことだけではなくて、学校の事務や委員会がたくさんあること、そして成績を出す。そして、学級の子どもたちの問題解決も日々あること、時には保護者も交えてとか、学校の時間外だとか、学校の外であったことまで解決を迫られることです。やることが常に膨大にあって終わりがないこと。
私は、その終了しない仕事に体がついていっていませんでした。疲れ果てていました。そして、一人暮らしを始めたら、学級の大変さとコンビニ弁当とアパート暮らしで不眠症に陥りました。結局頭がもうろうとしてしまい、仕事がてきぱきとこなせる状況ではありませんでした。結局見つけてもらった病名は化学物質過敏症でした。化学物質が私の中で溢れちゃってなんにでも反応するようになってました。シャワーの水でも蕁麻疹がでていました。寝れないから、朝が来るのがとっても辛かった。鬱みたいになっていたと思います。でも、疲れきっていて、自分のキャパシティーを超えるようなことをしていたのだから、病気になるのは当然だなと今なら思えます。教員の先生って、できないって言えないんです、何でもやらなくちゃが当たり前だから。
それでも私は、とても恵まれたほうで、初任の年には、一人専属でクラスに入って私と子どもたちを見てアドバイスしたり、時には授業をしてくださる先生がいました。そして、子どもたちの思いを毎日、放課後に私に解説してくれ、学級経営について、教科についていろいろ教えてくださいました。周りの先生方も支えてくださいました。だけど、本当に大変でした。人前に立って子どもをまとめつつ、各教科を教えていく、そして、ほかの事務仕事もすべてを並行して毎日過ごしていくなんて、私のキャパシティではできない!!と悲鳴を上げていたのでしょう。でも、家族や先輩方に支えられて、どうにかこうにか教員を続けました。
